LOGINぞわっと、その声を聞いた途端目が大きく開き、全身が震えたのがわかった。
恐怖ではない。けれども、からだ中に鳥肌が立つ——そんな感覚に戸惑う。 その初めての刺激に、ネメシスは咄嗟に上を見上げた。(——……っ! 外部からのお客様! )
見たことのある色の瞳が、ネメシスを見つめている。
鼓動が、バクバクと激しく鳴りはじめた。「……っあ」
魔術とはなんなのかとか、顔の近さがとか、あなたは誰なのか、さまざまな疑問符が浮かぶ中、ネメシスが口にしたのは、
「……あ。……きれいな、お月さま……」
限られた日々の中、ネメシスが感情を昂らせることはそれほど多くない。そんな中で、唯一毎日見上げていたもの——。 今もネメシスを見つめている、金の双眸を持った男——それが、オリヴァーだった。 「私の名はオリヴァーという。ちょうど、君に会おうとしていた」 「……わたし、ですか? ……すみません、先に用事を済ませて良いですか?」 「もちろん構わない。ついていこう」 まだ心臓が騒いでいる。早くここから立ち去りたくて、何か口にしなければと咄嗟に出た。 王都の偉い役人が、少年を傷つけたことでネメシスを咎めるためにやってきたのならば、このままどうなるのかわからない。せっかく早起きして収穫した野菜をそのままにするのはなんとなく嫌だった。 それ以上に、ネメシスと視線を合わせるために片膝をついている客人をそのままにしておけないと、周りの視線から逃げるように身を捩ってオリヴァーの手を解いた。「君たちも案内をありがとう。それでは」
「…………あ」オリヴァーは住人たちに礼を言うと、ネメシスが背負っていたカゴを腕から引き抜いた。肩が軽くなり、慌てて手を伸ばす。
「ずいぶん美味しそうな野菜だな」
「……すみません! これは、卵とお肉と交換してもらうので……。お渡しできるものでは……」 カゴの中の瑞々しい野菜への感想は嬉しかったが、これはネメシスが生きていくために必要な肉と交換するものだ。渡せと言われたら他の野菜が育つまでにネメシスが倒れてしまう。必死の懇願に、オリヴァーは自分が野菜をよこせと伝わったのだと気づく。
「勘違いさせて済まない。君の大事なものを取り上げたりなんかしないから安心して」
青ざめて目を潤ませていたネメシスは、思わず安堵で深いため息をついてしまった。慌てて軽くなった両手で口を塞ぐ。小さい爪の先には土が挟まっており、それに気づいてきゅっと手を握って背面に隠した。
「私は君のことが知りたい。初対面で緊張しているかもしれないが、普段の君が見たい」
突然やってきた人に突然そんなことを言われても、ネメシスにはわからなかった。
(……普段のわたし。普段のわたしって……どうだっけ? ……無理に話すことはしなくて良いのかな?) ネメシスの住んでいる家は大変古臭いので、野菜を交換してくれた店の店主に頭を下げて、店前のベンチを借りることにした。客人たちの身なりが良いことに慌てた店主がベンチに洗いざらしのシーツを被せたが、逆にネメシスはそこへ座れなくなってしまった。 座ったオリヴァーが、いつまでもネメシスが立ったままなのに気づく。自分のローブを脱いでシーツの上に広げると、いつまでも動かないネメシスの脇に手を入れて抱き上げた。 (……っえ? 汚しちゃう! わたしは汚れているのに!)火を起こすのが大変なので、普段水をかけ流すくらいしかしていないネメシスは、決して清潔などではない。住人たちにも汚れていると言われるのだ。思わず両足をバタつかせて下ろして欲しいとせがむ。
「……軽すぎる。……ほら、埃が舞う」 ピタッと動きを止めて大人しく座ったネメシスに、良い子だとオリヴァーは頭をポンポンと優しく叩いた。 今はもうなくなってしまった大人たちとの気安いやり取りが懐かしくなって、せっかく収まったはずの涙腺が再び緩みだす。「……ずいぶん苦労をしていたんだな。君の作った野菜やその手を見ればわかる。生きるために必死だったんだと。そんなに頑張っている君が汚いはずがないだろう? よく、今日まで生き延びてくれていた。私はその事にとても感謝している」
真剣な眼差しに、ネメシスは泣きそうになるのをグッと堪えて話を聞いた。
オリヴァーたちは王城の魔術師で、遠征中に感じた魔力を追って、勧誘できればと考えてこの集落へやってきたのだという。 魔術なのかはわからないが、と、ネメシスは少年を傷つけた時のことを吐露した。 自分に身に覚えのない、目に見えない何かが取り憑いているのではないかと、散々大人たちに言われて怖かったのだ。きっとこの人は話をまともに聞いてくれる。そんな安心感がネメシスの中に生まれていた。「……どうしてか、急に目の前が熱くなって、気がついたら痛がっていて……」
「住人たちからの証言と一致している。村の少年が傷ついたと。……それに、今も君の体内の魔力が不安定に蠢いている。私が思うに、君は強い恐怖を感じて魔力が暴発したんだと思う。先ほども……怖がらせて済まなかったね。……けれど、このまま感情に任せて暴走させると、最悪君自身も危険なことになる」静かに淡々と話すオリヴァーの話は、不思議とネメシスの中にスッと入ってきた。
(……これ以上どうやって生きていけば良いのか、生きていても良いのかって考えていたのに……。不思議……。この人の話すことは信じようって思える……)少年を傷つけたことが魔力の暴走なのは理解した。感情任せではない、理路整然とした話しは、森に迷い込んだネメシスを出口へと導いてくれそうで。
そんな彼の提案は、ネメシスにとって天啓にも思えるものだった。 「君が良ければ、私が君を引き取って保護しようと思うが、どうだろうか? このままここにいても、周囲に怯え誰かを傷つけないかと不安に駆られて、君はこれからも自分を犠牲にしてしまいそうだ。そうやって君が傷つくのを、私はほっておけない」 「……あなたさまについて行ったらわたし、誰も傷つけないようになりますか? 嫌なんです……。わからないうちに誰かを傷つけるのは……!」不安顔のネメシスに、オリヴァーは優しく微笑み返した。
「……もちろん。よく今まで頑張ったね。もう我慢しなくて良い。これからは私が君を守るよ。」
優しく頭を胸元に寄せられて、ネメシスは久しぶりの体温に、今度こそ涙腺が壊れた。
骨が目立つ肩を震わせて声を出さないように泣くネメシスを、オリヴァーは優しく抱き寄せた。「さて、ネメシス。君の王宮魔術師の赴任を歓迎する」 「ありがとうございます! オリヴァー先生」 「ふふ……。ここで『先生』は止めてほしい」 「承知しました。魔術師長」 クロイツァー王国の中心にある、王城の敷地内。王宮魔術師達の執務棟。その魔術師長の部屋。 先日、全体の入所式を無事に終え、配属初日を迎えた。 特別扱いをしたいのにさせてくれないとあからさまな表情をするオリヴァーを見上げて、ネメシスは対照的に毅然とした対応に徹する。「……『アリアドネ』の中であれだけ言われたんです。新人が他にもいるのに、わたしだけを特別扱いするのはダメです」 「…………ブレないね〜。……まあ、そこが君の良いところで、私が好ましいと思っている部分だが……」 「…………」 前の月に行われた、王宮魔術師長オリヴァーの秘蔵っ子ネメシスの卒業試験。それは前代未聞の画期的且つ言葉に言い尽くせないほど美しい魔術陣で紡ぎ出された、毒ある魔物を無害なものに変えてしまうという魔術だった。 魔物は人間が生きていられない瘴気と呼ばれるものから生み出されるとされている。ネメシスの魔術は、その瘴気を生物が生きられるものに変換し、さらに魔物の体内を浄化するというものだ。 生み出したきっかけは騎士団の遠征時に自分の食い扶持を得るためだったが、無毒化した魔物の肉を糧食として提供すれば、騎士団での居場所を作る足がかりにできるのではないかという、最下層の平民であったネメシスならではの現実的な発想だった。(山の恵みは山菜やきのこだけじゃない……。いつだってうさぎや鳥がいるわけじゃない) 卒業試験ではさらに、無毒化した魔物をその場で調理し、実際に食べてみせた。たまたま豚のような外見だったので豚と変わらないだろうと踏んでの試作だったが、審査員全員も無毒化を確認し、競うように実食した。おかげで満場一致で王宮魔術師の仲間入りとなった。 ちなみにレイティアも同僚だ。彼女は生活に寄り添った魔術が得意で、水さえあれば洗濯ができる魔術を披露し、さっそく前線の後方にある救護施設に送られた。次に会うのは前線の戦いが終結した時になるかもしれない。
『——ネメシスー! どこだー!』 「……誰?」 微かに名前を呼ばれた気がして、ネメシスは今も背後から体を揺すっている男の腕をトントンと叩いた。 「ん……ぁはぁ……。ま、待って……オリヴァー様。声っ、聞こえた……っぁあ!」 オリヴァーの膝に背を向けて跨ったネメシスは、男の甘い欲に耐えていたところだった。彼の動きが止まった反動で前のめりになったネメシスのからだを、ぐっと、後ろから回された力強い腕が引き留める。ネメシスはようやく荒い呼吸を整えようと、深呼吸を重ねた。 「……はぁ。 何が君の気を引いた?」 せっかく気分よく君を追い立てていたのに、と、オリヴァーがネメシスの腰をつかんで自分の腰を揺らした。二人しかいないはずの静謐な空間に、クチャと生々しい音が響く。 「っん! ……誰かに呼ばれた気がしたんです。あなた以外いないはずなのに……」 「……ここは最奥の玉座の間……。常に濃い瘴気が満ち、魔物どもが生まれ出るところだ。たとえ人間が侵入してこようとも、奴らには少々きつい……。……それに、君の名を呼ぶのは私だけ。……そうであろう?」 「そう……ですけど……」 薄暗い視界を見渡しているネメシスの、濡羽色の長い髪から唯一肌を見せている左耳朶を甘噛みして、オリヴァーが自分だけを構えと言わんばかりにチロチロと舌で擽ってくる。「……っん。っはっ……ぁあ……」 ネメシスの口から、甘い声と共に瘴気が生まれ出す。 その様子に気をよくしたオリヴァーはもっとその声をネメシスに出させようと、自分が彼女に与えた与えた黒のローブの隙間から現れた白い肩や背中にくちびるを落としていく。 「ぁ……、ぁ……」 「……そうだ。君はどんな姿であってもその心は変わらず……私だけを魅了し続ける。君は常に私の腕の中にいて、私だけを感じていればいい……。さあ、もう気を散らすのは終いだ。……幻聴などよりもっと、君のうっとりする声を聞かせてほしい……」 そう言って、魔王オリヴァーは再び腕の中の女を追い立てにかかる。 「ぁあ……っ! あ、ぁあっ……」(幻聴……? いいえ、確かに、私の名を呼ぶ声だった……。でも、誰なの——?) 規則正しく優しい、けれどもネメシスの弱いところを的確に狙われ、ネメシスはあっ
クロイツァー王国。王城の裏に広がる、静寂な森。 その奥深くに、魔術師の卵たちが集まる学園『アリアドネ』はある。 魔術が使える人員を国中から探し求め、2年間の厳しい修行を経て、魔物が出没する王国各地へと派遣していく。クロイツァーは、世界有数の魔術師大国だった。 貴重な魔術師と豊富な資源を欲して、さまざまな国があの手この手で王国を脅かしていた。戦争の収束する気配はない。瘴気が高まれば魔物も出没する。そんなこの国の最大攻撃力であり、最大防御力である彼らはいわゆるエリート集団で、国民の憧れの的だ。 あの日オリヴァーの手を取ったネメシスは、彼と共に馬車に揺られ、この『アリアドネ』に入学した。 言葉もろくに知らなかったネメシスに、オリヴァーは王都への移動中から文字を教え、『アリアドネ』に入る前に彼の屋敷で最低限の社交マナーをネメシスに施してくれた。 その中で、オリヴァーがまず教えてくれたのがネメシスの名前だった。 「『ノーラ』と言う名は、きっと正式な名前の略文字だと思うんだけれども、君は名前を知っている? それとも、なにか文字の書かれたものを受け継いでいるとか」 「……いえ、何も聞いていないと思います。お母さんが亡くなったのはまだ私が立つ前だったそうなので……」 「……そうか。では、これから新しい君として生きていくためにも、魔術師に多い名に寄せておこうと思う。君がこの先、大人になってこのクロイツァーを代表する魔術師となった時のために箔を付けておきたい」 どうだ? と訊かれても、ネメシスには特に愛着のある名前でもない。それに、『ノーラ』と呼ばれるたびに集落で呼ばれていた錯覚に陥りそうだと、名前を変えることに反対などなかった。「それでは……ネメシス。君はこれからそう名乗りなさい。欺瞞や傲慢を諌める女神の名だ。辛い思いをその小さな身ひとつで耐え抜いた君の心の強さに相応しい——」 「……ネメシス。ありがとうございます。……先生」『先生』の言葉にオリヴァーは首を傾げた。 ネメシスはその様子がおもしろいと感じて、笑った。「だって、わたしにたくさんのことを教えてくれて、
ぞわっと、その声を聞いた途端目が大きく開き、全身が震えたのがわかった。 恐怖ではない。けれども、からだ中に鳥肌が立つ——そんな感覚に戸惑う。 その初めての刺激に、ネメシスは咄嗟に上を見上げた。(——……っ! 外部からのお客様! ) 見たことのある色の瞳が、ネメシスを見つめている。 鼓動が、バクバクと激しく鳴りはじめた。「……っあ」 魔術とはなんなのかとか、顔の近さがとか、あなたは誰なのか、さまざまな疑問符が浮かぶ中、ネメシスが口にしたのは、「……あ。……きれいな、お月さま……」 限られた日々の中、ネメシスが感情を昂らせることはそれほど多くない。そんな中で、唯一毎日見上げていたもの——。 今もネメシスを見つめている、金の双眸を持った男——それが、オリヴァーだった。 「私の名はオリヴァーという。ちょうど、君に会おうとしていた」「……わたし、ですか? ……すみません、先に用事を済ませて良いですか?」「もちろん構わない。ついていこう」 まだ心臓が騒いでいる。早くここから立ち去りたくて、何か口にしなければと咄嗟に出た。 王都の偉い役人が、少年を傷つけたことでネメシスを咎めるためにやってきたのならば、このままどうなるのかわからない。せっかく早起きして収穫した野菜をそのままにするのはなんとなく嫌だった。 それ以上に、ネメシスと視線を合わせるために片膝をついている客人をそのままにしておけないと、周りの視線から逃げるように身を捩ってオリヴァーの手を解いた。「君たちも案内をありがとう。それでは」「…………あ」 オリヴァーは住人たちに礼を言うと、ネメシスが背負っていたカゴを腕から引き抜いた。肩が軽くなり、慌てて手を伸ばす。「ずいぶん美味しそうな野菜だな」「……すみません! これは、卵とお肉と交換してもらうので……。お渡しできるものでは……」 カゴの中の瑞々しい野菜への感想は嬉しかったが、これはネメシスが生きていくために必要な肉と交換するものだ。渡せと言われたら他の野菜が育つまでにネメシスが倒れてしまう。 必死の懇願に、オリヴァーは自分が野菜をよこせと伝わったのだと気づく。「勘違いさせて済まない。君の大事なものを取り上げたりなんかしないから安心して」 青ざめて目を潤ませていたネメシスは、思わず安堵で深いため息をついてしま
「ば、化け物……っ!」「ノーラ! お前、何したんだ!」 「…………」 ネメシスのいちばん古い記憶は、この言葉から始まる。 これまで何度も夢に出てきては、さまざまな声がネメシスを追い詰めていく。 少女はその頃、周りから『ノーラ』と呼ばれていた。 彼女が生まれたのはクロイツァー王国の、辺境領の最果て。国境門からも遠いが故に人々の行き来はほとんどない、ひたすら畑一面が広がる閉鎖的な集落だった。 母親はこの集落で生まれ育ち、暫く領主の屋敷へ奉公に行っていたらしい。ところが、ある日突然腹を大きくして帰ってきたのだと、集落の女性たちから教えられた。 集落から領主の屋敷へは、辻馬車で三日以上かかる。諸外国との関係が宜しくないと、国境門の守備へ多くの予算が割かれたために取り残された所だ。天候が悪く農作物が不足した時は、道中に山賊が出ることも多々あった。 まさに命懸けで帰郷した母親はネメシスを出産したのも束の間。産後の肥立ちが悪かったところに飢饉が重なり、ろくに栄養を取れないまま衰弱死した。 鴉のような黒髪と錫のようなネメシスの瞳は、集落では見ない色だった。けれども集落の女性たちは、父親のことを何も話さなかったネメシスの母を責めつつも、生まれたばかりのネメシスを一生懸命育ててくれた。 「ノーラ。あんたは将来美人になりそうだね〜」「美人ってなに? 美味しいの?」「何言ってんだい! 腹が減ったのかい?」「うん」「日没の夕飯までもう少し我慢しな」 集落に久しぶりに誕生した女児だからと、子育てが落ち着いた女性たちが代わるがわる可愛がってくれたおかげで、栄養失調気味で多少小柄ではあるものの、ネメシスは確かに成長していく。 両親のことは知らない。けれどもそれはネメシスにとって大したことではなかった。視線の先に常に誰かがいてネメシスを気にかけてくれている。それだけでよかった。他人から見ればとても小さな幸せ。ネメシスにはそれで十分だった。 だが、幼い少女が願う極小の幸せな時間は、ほんの些細な出来事がきっかけで呆気なく崩れ去る——。 ネメシスが十歳になる頃だった。 「いってー!」 ある時少年が荒げた声に気がついた大人たちが駆け寄って、目を見張った。 ——このこどもは、危険だ……。 呆然と佇むネメシス。 ネメシスが少年に触







